東京春祭 歌曲シリーズ vol.22 ペトラ・ラング (ソプラノ)

2018/3/23金 19:00開演 東京文化会館 小ホール

ソプラノ: ペトラ・ラング
ピアノ: エイドリアン・バイアヌ

ブラームス
 セレナード op.106-1 
 われらはさまよい歩いた op.96-2 
 愛のまこと op.3-1 
 傷ついた私の心 op.59-7 
 永遠の愛について op.43-1 
マーラー:《リュッケルトの詩による5つの歌曲
 私はほのかな香りを吸い込む
 美しさゆえに愛するのなら
 私の歌を覗き見しないで
 真夜中に
 私はこの世に捨てられて
J. マルクス
 森の幸せ
 雨
 日本の雨の歌
 ノクターン
 愛がおまえの心に宿ったなら
R. シュトラウス
 響け op.48-3 
 あなたは私の心の王冠 op.21-2
 あなたの黒髪を私の頭のうえに広げてください op.19-2
 (第2版/1944年3月31日、ガルミッシュにて)
 悲しみへの賛歌 op.15-3 
 解き放たれて op.39-4 
 懐かしい面影 op.48-1 
 二人の秘密をなぜ隠すのか op.19-4 

アンコール

R. シュトラウス

 君の青い瞳で

 僕らは踊り出したい気持ちだ

 献呈 1番&2番

ブラームス

 子守歌

バイロイトルツェルンなどの主要音楽祭、そして世界の一流歌劇場のワーグナー上演に欠かせないドラマティック・ソプラノ。ローエングリンのオルトルート、リングのブリュンヒルデパルジファルのクンドリなど、戦う女を歌わせたら天下一品。特にオルトルートはメゾ・ソプラノのころから80回以上歌っているという。そんなペトラ・ラングだが、日本での歌曲リサイタルは今回が初。

オープニングのブラームスは曲ごとに様々な表情を見せ、オペラ歌手としての彼女の表現力を見せつけてくれた。マーラーでは低音部の豊かな響きが印象的。作曲家による曲順指定がないので、ペトラはいつも今回の順で歌っているそう。リヒャルト・シュトラウスでは強く華やかな高音から低音まで、すべてコントロールが効いていて心地よく聴けた。

マーラーR.シュトラウスの間に配されたヨーゼフ・マルクスは、1882年オーストリア生まれ。26歳で作曲家を志し、1908年からほぼ4年の間に200曲あまりの歌曲を作曲したが、革新的ではないとあまり評価されてこなかった、いわば忘れられていた作曲家。今回取り上げられた5曲のうち、面白かったのが「日本の雨の歌」。原詩は『万葉集』(巻十三)より採られているそう。奈良県吉野地方を歌った歌で、歌詞に出て来る唯一の日本語「ミカネ」とは、「御金の岳」、金峯山のことらしい。山の頂に降る雨がやがて雪になると、歌詞には異国のロマンティックな光景が。ジャポニスムの残滓を感じる。だが、マーラーとR.シュトラウスに挟まれると、なんとなくポップスっぽい感じがして。。。なるほど、メジャーにならなかったわけだ。

声の調子がよかったのか、アンコールにつぐアンコール。「ローエングリン」のオルトルートがますます楽しみになってきた!

地域の物語2018 『生と性をめぐるささやかな冒険』発表会

2018/03/18日 15:00開演 シアタートラム

間口が広く奥行きの狭いシアタートラム。舞台面と同じ高さに置かれた客席の前2列はすべて空いてる。舞台上手と下手の壁にそれぞれ一列、椅子が置かれている。客入れの音楽が絞られ舞台奥から出演者たちがわらわらと出てくると、みんな前2列の客席に、私たちに背を向けて座った。私たちも見ているあなたたちと同じ、ごく普通の市民なんだよ、と、その背中が言っているような気がする。進行役として演劇家の柏木陽さんが登場し、舞台が始まる。

『地域の物語』は、公募によって集まった人々が、ワークショップを通じて作品をつくりあげるプロジェクト。今年度は昨年度に続き「生と性をめぐるささやかな冒険」をテーマに、「セックスをめぐる冒険」部、「男と子育てをめぐる冒険」部、「女らしさ男らしさをめぐる冒険」部と3部活を設定し、約30名が参加。12月から3月に開かれた全17回のワークショップを経て、最終日3月18日、11時~/15時~の2回、演劇の形での発表となった。昨年度も演劇の形で発表され、最後は号泣だったとの話を聞き、初めて観にいくことに。ちなみに無料。要予約とあったが、当日券でも入れた模様。ただし、私が観た15時の回は立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。

ファシリテーターとして、演劇家の柏木陽さん、俳優・劇作家・演出家の関根信一さん、演劇プロジェクトの企画・推進などを中心に活動する花崎攝さん、振付家・ダンサーの山田珠美さん、俳優の山本雅幸さんが、ワークショップから発表会まで参加。発表会の総合司会(?)は柏木さん。彼が出す質問に出演者たちが答えるYES/NOゲームをきっかけに舞台は進行していく。「年収が500万以上ある」「パートナーとセックスについて話し合ったことがある」「生まれながらの性別に違和感がある」などなど。冒頭の「YES/NOゲーム1」から「カーテンコール」まで全28のシーンで舞台は構成されている。

参加する人、観る側の人

20代から60代とおぼしき人まで、出演者の年代は幅広い。おそらく、職業もさまざま。想像していたよりずっと声も通り、みんな、きちんと演技している。ただ、そこには、ごく普通の会社員という人がいないようだった。

ごく普通の会社員、そう書きながら、それってどんな存在なんだろうと、ふと思う。

定時に会社に行って働き、職場の仲間や家族と上手くつきあい、、、スーパーでなくてもいいので、それなりに社会に適応している人たち。いまの環境に多少の違和感や居心地の悪さはあっても、やり過ごしてやっていける人たち。発表会出演者にも、もちろんそんな普通の会社員がいて、でも普段は目をつむっている違和感に向き合うためにこのワークショップに参加したのだろうけれど、こちらが観客席に座った時点で、舞台にいる人たちをある意味”特別”な人と見てしまうのかもしれない。特別だからあちら側に立てるんだ、と。

もうひとつ、思ったこと。無料って難しい。。。

今回の発表会出演者には個人的な知り合いひとりもなく、本当にふらりと観にいっただけ。フライヤーやWebで公演を知り「面白そう」と観にいくのと同じはずなのに、決定的に違うのは「無料」であったこと。観るという体験に対して対価が派生する。料金に十分に値する、もしくは料金が安く感じられれば、観る側にとって大満足。面白くなかった、この料金高すぎない?という場合ももちろんあるが、料金が介在すれば、舞台を観る→評価するというスタンスが生まれる。それが私にとって舞台体験の基本なので、無料という違和感に上手く対処できなかった。プロの舞台人のステージなら好き/苦手、面白かった/いまいち、という割り切りができるのだけど、今回のような公演だと、もちろんそんなに面白いわけではなく。。。すごく笑ったり拍手したりしていた人たちがいたけれど、私はそれもできず、もやっと困ったまま客席にいただけ。

この回は終演後アフタートークがあったのだが、次の予定のため参加できず。アフタートークを聴き、出演者たちの生の声に触れれば、本編に対する感想もまた変わったかもしれない。こういうプロジェクトを観にいくときの、自分なりの心構えをつくりあげたいものだ。。。

カンパニー・デラシネラ「分身」「椿姫」

2018/3/21水・祝 「分身」14:00開演 「椿姫」17:00開演 世田谷パブリックシアター

「分身」

演出:小野寺修二
テキスト:山口茜
照明:吉本有輝子
音響:池田野歩
衣装:駒井友美子(静岡県舞台芸術センター)
演出助手:藤田桃子

「分身」

原作:フョードル・ドストエフスキー「二重人格」より
出演

男:王下貴司、女:名児耶ゆり、もう一人の女:辻田暁、ペトリョーシカ:宮河愛一郎、見ている女:田中美甫、室長:伊吹卓光、同僚(椅子男):遠山悠介、同僚(立つ男):友野翔太、同僚(女):大樹桜、医者:宮崎吐夢、門番(男):植田崇幸、門番(女):浜田亜衣、もう一人の男:豊島勇士

「椿姫」

原作:アレクサンドル・デュマ・フィス「La Dame aux camélias」より

出演

マルグリット:崎山莉奈、アルマン:野坂弘、伯爵・私:斉藤悠、公爵・父:大庭裕介、なりたい女:増井友紀子、友人の女:仁科幸、運ぶ女:菅彩美、新しい女:牟田のどか、使者:宮原由紀夫

2015年~2017年までの3年間、小野寺修二のもとで若手育成を目指し舞台作品を創作してきた「白い劇場シリーズ」。2015年上演のシリーズ第1弾『分身』、2016年に上演し「CoRich舞台芸術まつり!2016春」のグランプリを受賞した第2弾『椿姫』の2作を、公募で選ばれた新たなメンバーを加えて再上演。いずれも初演を観ていないので進化の具合はわからないが、どちらも演出が面白く楽しめた。

2作とも、舞台装置らしいものは何もなく、ただ2、3卓のテーブルと人数分+αの椅子だけ。テーブルひとつで自宅の食卓、2つひっつけてオフィス、すべて並べれば晩餐会、縦に長く並べればファッションショーのランウェイに。衣装もごくシンプルで日常的。「分身」は全員がモノトーン+赤、「椿姫」は男性はスーツのアレンジ、女性は赤、青、緑などのワントーンのワンピースかツーピース。小道具もごくありふれたものをほんの少しだけ。「分身」はどのオフィスにもありそうなファイルやタイプライター、「椿姫」はグラスやシャンパンのボトルが出てくるぐらい。

「分身」はいわゆるドッペルゲンガーもの。人付き合いが苦手、上司や同僚と上手くいかず、恋する女にも振り向いてもらえない。そんな彼がある日、自分にそっくりな男に出会う。そっくりな男は彼と同姓同名を名乗り、彼のオフィスに現れ仕事を始める。そっくりな男は彼と正反対で要領がよく、上司や同僚とうまくやり、彼の生活をどんどん奪っていく。

台詞らしい台詞はほとんどなく、ときどき「あ」「固い」みたいな単語がもれるくらい。アクロバティックな動きと間だけで、男がだんだん孤立し、アイデンティティ崩壊に陥っていくさまを描き出していく。そんななか、名児耶ゆりさんのアカペラの歌がみごとで、印象鮮やか。主人公の男を演じた王下さんはいかにも真面目に見え、壊れていくさまが痛い。Noism出身、宮河愛一郎さんのダンスはさすが!女性で気になったのは粘りのきく動きが好みの、たぶん浜田さん。

デラシネラ版「椿姫」は名作でした!

「椿姫」は基本的なストーリーはそのままに、オペラやバレエでは情緒的に表現されるものをもっとむき出しにしたよう。マルグリットを演じた崎山莉奈さんは、華奢で小柄、きれいというよりかわいいタイプ。昔の事務員のようなブルーのセットアップという、ちょっとマルグリットとは思えない衣装で、最初はこの地味な人がマルグリット?と驚いたのだが、観ていくうちにどんどん美しさを増していった。ころころ気分を変えるマルグリット、それに振り回されるアルマンの必死さと愚かしさ、そんなアルマンにほだされていくマルグリットの美しく哀しい表情。アルマンの野坂弘は大きな目がくるくると動き、感情をいきいきと伝わってくる。

女たちは、ドゥミモンド(裏社交界)の華であったマルグリットに成り代わりたいと思っている。そして男たちは女たちを愛人にしたいと思っている。そんな男女のやりとりが、椅子を使って表現されるのが面白い。女が座ろうとする場所にすっと椅子を差し出す男。男にしなだれかかり、彼の座った椅子を抜き取る女(男はその間、中腰姿勢。すごい粘り!)「分身」とは違いこちらは台詞も多く、特にマルグリットの愛人である伯爵と私(作者、デュマ・フィス)役の斉藤さんは、サングラスをかけクールに構えつつしゃべりまくる。Noism出身宮原さんも不思議な存在感。マルグリットが持っていた本がオークションにかけられるシーンがあったけれど(原作ではアルマンが贈った「マノン・レスコー」の本)、ステージの流れでは彼女の日記という設定なのかな。ラスト、横たわったマルグリットの周囲に、真っ赤な椿の花が舞台にひとつずつ置かれていくシーンがとても美しく、心に残った。

マリア・パヘス&シディ・ラルビ・シェルカウイ「DUNAS―ドゥナス―」

2018/3/29木 19:00開演 3/31土 14:00開演 Bunkamura オーチャードホール

演出・振付・出演:マリア・パヘス、シディ・ラルビ・シェルカウイ
音楽
歌:アナ・ラモン/ベルナルド・ミランダ、アラビア語歌唱/モハメド・エル・アラビ・セルギニ、ピアノ:バルバラ・ドロンシェコフスカ、ギター:ホセ・カリージョ”フィティ”、ヴァイオリン:ダビッド・モニス、パーカッション:チェマ・ウリアルテ

初演:2009年シンガポールダンスティバル

上演時間約80分

 

現代フラメンコを代表する舞踊家マリア・パヘスと、今最も注目される振付家・コンテンポラリーダンサーのシディ・ラルビ・シェルカウイによる80分間のステージ。「DUNAS(ドゥナス)」とは、スペイン語で“砂丘”の意味だそう。このタイトルには「常に風によって姿を変える砂丘のように、自由でありたい、お互い刺激を受けながら変わり続けたい」という願いが込められているという。2009年初演以来、世界各国で上演されてきた作品の、今回が日本初演。「Lamento(嘆き)」と題されたシーンから始まりラストの「El ultimo abrazo de las dunas(砂丘の最後の抱擁)」まで、全15シーンがデュエットで、また1人ずつで、次々に繰り広げられる。

舞台の幕が開くと、ステージには3枚の薄い布が垂らされているだけだった。ステージの後方にスクリーンのように1枚、上手と下手にそれぞれ、客席に垂直に1枚ずつ。照明により砂丘を思わせる美しいオレンジ色に染まっている。音楽が始まり、上手にパヘス、下手にシェルカウイが入り、伸縮性のあるその布を体にまつわらせながらステージを動き回る。互いを探すように。そして中央に歩み寄り、布越しに抱き合うようにして踊り始める。このシーンがまず、泣きたいくらい美しい。メランコリックな音楽、ライティングでオレンジに染まった布。まずは布越しに触れあい、抱き合い、そして布から出した腕だけを絡ませ、触れあわせ、流れるようにふたりは踊る。パヘスがソロで踊るシーンでは、下手に座ったシェルカウイの手拍子の影がパヘスに覆い被さるように大きく映し出される。また、パへスの動きに合わせシェルカウイが描く砂絵を布のスクリーンに大きく映し出したり、光と影を操って、布しかないステージを砂丘に、ストリートにと変化させていく。三枚の布を舞台面に並行に下ろし、左右からライトを当て、その間を歩き回るふたりの影をいくつも投影して、人々が通りをあてどなく彷徨うシーンを作り出す。シェルカウイひとりの影で、喧嘩をするふたりと仲裁に回る人、3人を演じて見せたり、この人、アイディアが無限に湧いてくる感じがする。

自然が好きで「木になりたい!」というパヘスの動きに合わせ、シェルカウイが砂絵で木を描いていくシーンがとても面白い。シェルカウイ、器用に両手を使って木を描き、そこに太陽や星のような円を加える。次に描いた木の両サイドには男と女を描き、りんごを加え、幹に蛇を巻き付かせる。小さな魚が大きな魚に食われる食物連鎖。子宮と胎児、赤ん坊から少年、成年、老人、そして墓までの人の一生と輪廻。それらを描くたび、シェルカウイは?マークを付け加える。どうして?こうでなくてはいけないの?9.11のWTCジェット機が追突する絵を描いたかと思うと、ときどき砂の隙間から彼自身が顔を出したり。また次のシーンでは、シェルカウイはヘブライ民謡の詠唱を!これがまたいい声で、彼の才能の多彩なことに感動。

通底するのは、マージナルな位置に身を置くものの悲哀?

アラブの影響から生まれた独特の文化を持つスペイン。そこに生まれたパヘスと、モロッコ人の父をもつシェルカウイ。西洋文化のメインストリームから見ると、マージナルなルーツをもつふたり。そんな彼らが灼熱の砂丘というエキゾチックで、でもストイックな風景に身を置き、人間同士が触れあう意味を確かめ合う。

気になったのは、後半に挟み込まれた、暴力を連想させるシーン。パヘスの動きに合わせシェルカウイが何度も倒れ込むのであって、逆でないのが救われるのだが。シェルカウイのインタビューによると、アラビアとスペインの関係を表現しているそう。スペインに溶け込んでいたイスラム文化が、レコンキスタによりアフリカに押しやられていく-ひとつだったものが暴力によりふたつに引き裂かれる。でもやがてゆっくり対立がなくなっていき、ふたりは抱き合う。ふたりの下半身を布でぴっちり包みひとつにして、上半身だけで互いを包み込むように絡み合って踊るのだが、ダンサーとして優れた身体能力を持つふたりなので、その動きのなめらかさ、空間の支配力のすごさが並外れていた。最後、溶け合うように倒れ込んだふたりを、ふわりと落ちてきた布が包み隠して、幕が下りた。

シェルカウイの演出でいつも感動するのが、音楽のセンスのよさ。「アポクリフ」「TeZukA」「BABEL(words)」「sutra」に続き、今回も生演奏。パヘスの信頼も厚いカンタオーラ(歌い手)アナ・ラモンが泣き叫ぶかのように歌い、情熱的なギターが寄り添う。フラメンコとはまた違う哀愁を感じさせるアラブ・アンダルシア音楽の歌が入り、現代音楽で活躍するピアノやヴァイオリンが端正な音を重ねる--様々な背景を持つミュージシャンのアンサンブルが今回も素敵だった。また、セットを振付の一部として取り込んでいることも、シェルカウイの演出の上手さ。すべてのセットに必然があるのだ。上半身を自在に使い、手や腕の表現を重視したシェルカウイの振付も、両性具有的な魅力があって大好き。

でも、いちばん好きなのは、彼の作品の世界観。世界じゅうの劇場から引っ張りだこ。1週間同じ都市に滞在することはないのでは、というくらいのジェットセッターぶり。来シーズンもパリ・オペラ座バレエやロイヤルバレエに作品を提供し、バイエルン国立歌劇場ではオペラの演出を手がけるなど、演出家・振付家として大成功しているはずなのに、彼にはいわゆる成功者のイメージがない。その作品には常に孤独の影がつきまとう。リュックひとつ持って、いつもひとりで、ふらりと移動していそう。デラシネ?エトランジェ?アウトサイダー?そんな言葉が浮かんでくる。

パヘスは50代後半?とは思えないエネルギッシュな踊りで全編を駆け抜けた。シェルカウイは確か今年42歳。2010年「アポクリフ」来日公演のときに比べると、動きのキレは多少鈍っているように思えたが、驚異の柔軟性は健在。フラメンコのステップで踊る姿も楽しそう。初日に2階バルコニー席から全体を見たときには、演出は面白かったもののダンスのエネルギーに欠けるように感じられたが、楽日に1階3列目から見ると、いや、すごい踊ってました! フラメンコは近くから観るものだと実感。

 

東京・春・音楽祭 シンフォニエッタ・クラコヴィア with トマス・コニエチュニー II ~スラヴィック・メロディ――ペンデレツキ生誕85年に寄せて

2018/3/17土 15:00開演 東京文化会館 小ホール
バス・バリトン:トマス・コニエチュニー
指揮:ユレク・ディバウ
弦楽合奏シンフォニエッタ・クラコヴィア

 ペンデレツキ:
 シンフォニエッタ 第3番 「書かれなかった日記のページ」 
 アニュス・デイ(「ポーランド・レクイエム」 より) (弦楽合奏版)
ムソルグスキー(R.クウォチェコ編):「死の歌と踊り」
 第1曲 子守歌
 第2曲 セレナード
 第3曲 トレパーク
 第4曲 司令官

アンコール

マーラー亡き子をしのぶ歌」第3曲 お前のお母さんが戸口から入ってくるとき

-休憩-
ドヴォルザーク:弦楽セレナード op.22
 I. Moderato
 II. Menuetto. Allegro con moto
 III. Scherzo. Vivace
 IV. Larghetto
 V. Finale. Allegro vivace

アンコール

バダジェフスカ乙女の祈り

ペンデレツキ「古い様式によるアリア」

ポーランドが生んだ偉大な作曲家ペンデレツキの生誕85年に、作曲家の故郷であり本人とも所縁の深いシンフォニエッタ・クラコヴィアがお届けする特別プログラム。スラヴ音楽の名曲とともに――と、オフィシャルHPに。昨日のⅠは「マーラーに捧ぐ」と題され、アダージェットと「亡き子をしのぶ歌」、そしてマーラー編曲のシューベルト「死と乙女」という好みど真ん中のプログラムだったが、当初、都合が付きそうになく、Ⅱのみの鑑賞となった。

クラシックは永遠のシロウトなので、ペンデレツキといえばこの曲、みたいなイメージもなく、白紙状態での鑑賞。現存する作曲家ということで、現代音楽寄りだったらどうしようと思っていたのだが、演奏されたのはとてもメロディアスで、ロマンティック、東欧らしい昏さと宗教音楽のような精神性の感じられる曲だった。最初の「書かれなかった日記のページ」ではヴィオラが主旋律を奏でるところが多く、心に染みるような音色が素敵だった。今回のペンデレツキの曲はどれもストーリー性があり、ダンスのシーンが浮かんでくる。この曲で誰か振り付けてくれないかな。ノイマイヤー的な、バレエをベースにした動きで作品を作る人がいいのだが。

コニエチュニーはムソルグスキー「死の歌と踊り」に登場。原曲はピアノ伴奏らしいが、今回は独唱と弦楽合奏のための編曲版。第1曲は幼い子供、第2曲は若い乙女、第3曲は酔っ払いの農夫、第4曲は戦場で斃れた兵士たち、と、4つの死の情景が描かれる。すべて語り部による情景描写の後、死神が言葉巧みに人々を死に誘っていく。俳優を経て声楽家になったコニエチュニーの、演技力溢れる歌がとにかくすごい。新国立オペラ「ホフマン物語」でも4役を見事に演じ分けていたが、衣装もメークもなくても、1曲ごとにまったく違う声音の死神が現れ、熱に苦しむ幼子を看病する母や病んだ娘、貧乏な酔っ払いの農夫、無数の兵士たちの死骸が転がる荒野まで、まざまざと想像させられる。フォルテッシモでは音の振動が私たちの身体に伝わってくるようだった。コニエチュニーが「ファウスト」のメフィストフェレスを歌うなら絶対観にいきたい。彼がやるのにふさわしい、スタイリッシュで凄みのある設定のメフィストフェレスなら、だけど。

後半のドヴォルザーク「弦楽セレナーデ」は、ノイマイヤーの「スプリング・アンド・フォール」に使われていることもあり(第1・4・5楽章を使用)、脳内にはまたダンスシーンが。美しいメロディが、第1ヴァイオリン6人、第2ヴァイオリン5人、ヴィオラとチェロ各4人、コントラバス1人の編成で、豊かに響きわたる。

客席には空席が目立った。どちらかしか聴かないなら、まあマーラープロを選びますよね、普通。でも、ペンデレツキとムソルグスキードヴォルザークというスラヴつながりのプログラムはなかなか面白く、アンコールでの「乙女の祈り」はちょっとあざとかったけれど(編曲もあまり好きではない)、ペンデレツキの「古い様式によるアリア」は美しい曲で、これで締めになったので大満足!

「谷川俊太郎 展」

2018/03/16金 東京オペラシティ アートギャラリー

音楽:小山田圭吾コーネリアス
映像:中村勇吾(tha ltd.)
会場グラフィック:大島依提亜
会場構成:五十嵐瑠衣

谷川俊太郎の詩の世界を展覧会に?いったいどうやって?と気になってはいたものの、なかなかタイミングが合わず、終了まであと1週間というところでようやく拝見。週末はかなりの混雑、平日昼間もそこそこ混んでいるということなので、夜間延長を狙って金曜に。閉館まであと40分というぎりぎりタイミングで駆け込んだが、それでもそこそこに人はいた。

Gallery1:音と映像による新たな詩の体験
白いカーテンをくぐると、まず現れるのがこのコーナー。小山田圭吾コーネリアス)の音楽とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)の映像による、谷川俊太郎の詩の空間。名作絵本『ことばあそびうた』で知られる「かっぱ」と「いるか」「ここ」という3つの詩を、谷川さんの声をまじえた音と映像で空間化。細長い空間の四方の壁に24のモニターと26のスピーカーが設置され、360度”動き回る”音と映像(といってもひらがな1文字や色、人の顔くらいのシンプルなもの)に包まれる。谷川さんの詩のリズムと小山田さんの音楽が絶妙。詩のプールに飛び込んで、たゆたう音と光、ときおり押し寄せることばの波に身を委ねているような体験だった。あまりに楽しくて、会場全体を一巡りした後また戻ってきて、結局ここで20分くらい過ごしてしまった。

Gallery2:自己紹介
日本で最も有名な詩人であり、詩を書くことで生計を立てていけるもしかたしたら唯一の詩人。そんな谷川さんの20行からなる詩「自己紹介」に沿って、20のテーマごとに谷川さんにまつわるものごとが展示されているのがこのコーナー。会場に入ると20行の詩を1行ごとに記した柱が見える。近づくとそのひとつひとつが大きな展示棚になっているのだ。一番最初に置かれているのが「私は背の低い禿頭の老人です」という柱。このサイドになんと、谷川さんの等身大のポートレート。左右両側に横向きの谷川さんがいる!本当に、小柄なんですね。友人と行ったら、ぜひ横に並んで写真を撮ってもらいたかった。

そのほか、棚には、谷川さんが影響を受けた音楽や「もの」、家族写真、大切な人たちから送られてきたはがき、ラジオのコレクション、鉄腕アトムバカボンのパパ、洗いざらしたTシャツなど暮らしの断片、知られざる仕事などなどが。そこに選りすぐりの詩作品が添えられている。谷川さんの脳内が視覚化された棚たちは、これ谷川家のリビングから持ってきたんですよ、と言われても頷けるような日常を感じさせる。次の空間への出口近くに谷川さんの著作を詰めた本棚が置かれ、「マザーグース」もそこに。もちろん全巻持ってたなあ。本当に懐かしい。

Gallery3:詩

展覧会のために新たに書き下ろされた「ではまた」と題された1篇の詩。それが壁に大きく書かれている。シンプルだが、言葉の連なりである詩の強さを実感させてくれる空間。

通路:年譜

その年に発表された作品とともに、谷川さんの私的なできごとが相当細部まで紹介されているらしく、みんなじっくり読みこんでいた。が、時間がない人用に、背後に通り抜け通路が設けられている。今回は時間がなかったのでその通路へ。。。

コリドール:3.3の質問
「3.3の質問」は、谷川さんが1986年に出版した『33の質問』(ノーマン・メイラーの「69の問答」にちなんで33の質問を作り、7人の知人に問いかけをしながら語り合う)がもとになっているそう。その現代版として、当初の33の質問から谷川さんが3問を選び、新たに「0.3の質問」を加えて「3.3の質問」となっている。「もし人を殺すとしたら、どんな手段を選びますか」などシンプルな質問を、最果タヒ春風亭一之輔など、各界で活躍する人々にぶつけ、その答えを作品としてモニターに展示。みなさん、答えが上手い!ここもじっくり見てしまった。

やさしいことばで深い内容、微妙なニュアンスを伝え尽くせる谷川俊太郎。それをアートに走りすぎず、かわいくかっこよく何より楽しく、音に乗せたり視覚化したりした開場構成の妙。幅広い世代が楽しめる展覧会だったと思う。

Live Performance SHIBUYA  森山開次 春の祭典

2018/03/02金 19:00開演 文化総合センター大和田 さくらホール

ドビュッシー

「牧神の午後への前奏曲」(2台ピアノ版) ピアノ:福間洸太朗、實川風

前奏曲集 第1集より」

第5曲 アナカプリの丘・第6曲 雪の上の足あと・第7曲 西風の見たもの ピアノ:福間洸太朗

第8曲 亜麻色の髪の乙女・第10曲 沈める寺・第12曲 ミンストレル ピアノ:實川風

-休憩-

ストラヴィンスキー

春の祭典」(4手のピアノ版)

ダンス:森山開次

ピアノ:實川風、福間洸太朗

上演時間:1時間40分(休憩含む)

世界的ダンサー森山開次が、いま注目の若手ピアニストふたりと共演。この一夜限りというから贅沢だ。前半は「春の祭典」へのオマージュとして、ピアニストふたりがセレクトしたドビュッシープログラム。後半はストラヴィンスキー自らの編曲による4手のピアノ版で、森山開次がフルに踊る。

「牧神の午後への前奏曲」は作曲者による2台ピアノ版。上手のピアノに實川さん、下手には福間さん。それぞれコンサートピアニストとして活躍するふたりが一緒に弾くとは贅沢。オーケストラでしか聴いたことがなかったが、ピアノ版、2台の掛け合いがとても面白い! オーケストラ版では夏の午後のけだるい空気が漂ってくるようだが、ピアノ版はマラルメの詩による牧神とニンフとの物語性がより強くなるように思う。自らの音世界に浸るような実川さんと、タブレットPCの楽譜を使うほど理知的な福間さんの対比も面白かった。ちなみに前奏曲集の第6曲「雪の上の足あと」を聴くと、いつも萩尾望都の「訪問者」を思い出して胸が詰まります。。。

メインプログラムは後半、「春の祭典」。休憩が終わって席に戻ると、全体を暗く落とした舞台奥の壁にライトで、大きく日輪が。そして照明がすべて落とされ、暗闇の中にピアニストふたりと森山さんが登場する。上手のピアノに福間さん、下手のピアノに實川さん。ふたりとも、クラシックコンサート然とした前半のジャケットスタイルから、黒シャツ黒パンツにチェンジ。森山さんはアジアの民族衣装のような刺繍?織りの布をあしらった白(生成り?)の腰巻きのみのスタイル。ニジンスキー振付の春祭復刻上演も、白っぽいベースにエスニックな柄を刺繍であしらった衣装だったが、それを思い出させた。

ピアノの前、2台のピアノの間、ピアノの背後に配された山台(上手下手両方に階段をつけてある)、ときに舞台を降りて観客席最前列の前を走り抜けたり、森山さんは縦横無尽に空間を使い踊る。音楽と彼の踊りの盛り上がりにシンクロして、ピアニストふたりもスツールから腰を浮かせ、全身を使って激しいリズムを刻む。木のシルエットを壁に映し出す照明が加わり、まさに春を呼ぶ儀式がそこで行われていることを明らかにする。片手を垂直に上げてジャンプしたり、二の腕を肩のラインまで上げ肘から下をぶらりとさせたり、体の正面で両肘をほぼ直角に曲げ手を上げたり、森山さんのダンスには時折ポーズが挟み込まれる。それらがニジンスキーの春祭や「ペトルーシュカ」「牧神の午後」など、彼が踊った演目へのオマージュになっていたのだと、あとで気がついた。

ストラヴィンスキー管弦楽版とともに、4手連弾版(1台のピアノをふたりで弾く)を書いていたそう。1913年、ニジンスキーが「春の祭典」をシャンゼリゼ劇場で初演したのと同じ年に、連弾版の楽譜が出版されている(1947年に改訂版を出版)。今回の公演では、改訂版を2台のピアノで演奏。オーケストラならではの厚みのある音や金管のきらきらした音色は魅力だが、2台のピアノはまた違う面白さがあった。切り裂くようなリズムの激しさは、ピアノ版のほうが迫ってくるかも。以前、平山素子さんが新国立劇場で春祭を生ピアノの連弾でデュエットで踊るのを観たことがあるが、今回は福田さん、實川さんというピアニストとして活躍しているふたりの演奏とあって、音楽のパワーが段違いに大きかった。平山さんの公演は演出が素晴らしかったので(特にエンディング!)、音楽の印象が弱くなってしまったのかな?